日本人の道徳③恥じらい

Kazuma Muroi

Shalom Homesの代表取締役。NPO法人横浜市まちづくりセンターの理事。執筆テーマは古武術・子育て・民俗学・宗教学。

名誉のためなら死を選ぶ

江戸期の洗練された武士道観では忠と孝が貴ばれ、義に反することは唾棄されるべしという誇り高い思想が存在しました。

体面のためなら己の命を絶つ、自分の名誉は死んでも守るという考えから切腹という有名な制度も生まれました。

それは明治期にも受け継がれ、第二次世界大戦で政府が武士道と神道を、政治利用してしまったことでGHQからの禁則事項にいれられてしまいました。

「人前で恥ずかしいことをするな」「お天道様が見ているよ」という言葉はかつての日本でよく使われた子供に諭す言葉であり、他人の前でみっともないことを戒める躾が存在しました。


曲解された個人主義

バブル崩壊後、欧米から個人主義という言葉が入ってきました。

集団のために生きてきた日本人には魅力的だったようで、「自分のために生きよう」という風潮が生まれたまでは良かったのですが、その意味が曲解され「自分さえよければ他人の目を気にしなくていい」という空気を作ってしまいました。

人々のマナーがどんどん悪くなっていくのがよく分かる、そんな過渡期を私は学生時代として過ごしました。

現在、どれほどの人がシルバー席付近で携帯の電源を切っているでしょうか、どれほどの人が携帯電話の着信音をOFFにしているでしょうか。

また、車の割り込み、店員に対する不遜な態度、権威あるものへの卑屈な態度等々、人の目を気にしなくなり、恥ずかしいという感覚が人々から消えていくのが手に取る様に見えるでしょう。

一番問題なのは、かつて聖職と呼ばれた教師の品格が地に堕ち、生徒を犯罪の餌食にしていることです。

子供を導くのは親と教師であり、その一角はもはや尊敬の念を集めらる存在ではなくなっています。

そして、もう一方の親も、精神的に幼い人々が非常に増えています。

子供を大切にできない社会で、子供が真っ直ぐ育つはずもなく、彼らが大人になった時にどうなるかを大人は考えなければならないのです。


ゆずりあいから始まる思いやり

個人の私たちが今日からでも取り組めること、また自分の兄弟姉妹や子供に教えてあげられることを述べます。

ひとつは、自分が行う行動で相手を心地よくさせてあげようと常日頃考えることです。

例えば、狭い通路の入口に同時に他人と入りそうになったらすっと身を引いて相手を立ててあげること。

会釈や微笑みで返すのが礼儀ですが、相手が不遜な態度でもあなたは腐ってはいけません。

無礼な輩の行いを受けて、もう二度と親切になんかしない、と思ってしまうことはとてももったいないことですから、そんな人間にあなたの心を汚させないでください。

もうひとつは、心にゆとりをもつことです。

相手の前に割り込むことであなたが得るのは数秒の節約、失うものは大きな自尊心です。

自分を嫌いになることを重ねるて人の心は麻痺していくのです。

人によって、自分のペースを乱されず、あなただけのテンポで歩んでいけばいいのです。

エスカレーターで我先に片側を駆け上がる輩と同列になってはいけないのです。


正しい行いかどうかを判断する力

ほとんどの世の無礼者は、根本から極悪人なわけではなく、ちょっとしたストレスやわがままが積もり積もって、心を曇らせた人々です。

彼らを甦らせるのは、周りの人間が正しい行いをすることに限ります。

直接的な言葉で変わるほど、人の心は単純ではなく、下手をすると揉め事の種になります。

彼らが自分で悟る力を持っていると信じて、まずはあなたから恥ずかしい行いをやめていくことです。

人に関わる行為で、おや?っと思うことがあったら立ち止まり、それが果たして正しかったかどうかを考えましょう。

自分を改められる人には、自ずと恥じらいの心は備わっていくものなのですから。


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