「自由」が本当に幸せ?

Kazuma Muroi

Shalom Homesの代表取締役。NPO法人横浜市まちづくりセンターの理事。執筆テーマは古武術・子育て・民俗学・宗教学。

書いていたら話が膨らみ過ぎて、自分でも着地点が見えなくなった記事であることを告白しておきます、、、🙇‍♂️


なんでも選べる=なんにも選べない?

「昔は自由なんてなかった」という言葉を誰しも一度は聞いたことがあるでしょう。職業選択、結婚相手、住むところなど、今では当たり前の選択が、かつては許されていなかった時代がありました。メディアや世論、漫画でも一様に「(選択の)自由って素晴らしい!」と述べられていますが、今日は違った観点から自由な選択が人々に与える影響を深堀してみようと思います👀

大前提として、選択することが苦痛の人間が一定数いることの事実です。自由を与えれば、人は誰しもが翔ける、というのは幻想であり、誰かが決めたことを淡々とこなすことを望む人たちがいます。つまりは、意思決定を人に委ねて、指示を受けることを望む人々です。もちろん、自分の人生のハンドルを自分で握るということは、自律した真人間としてとても大切なことですが、それができない、そこまでの責任をもてない現状維持を願う人間たちがいることを忘れてはなりません👨‍👩‍👧‍👦


自由と自己責任

また、自由に選択するということは、その結果が良くも悪くも己にふりかかるということです。なんでも自分で決める、という言葉の響きはとても勇ましく聞こえますが、人間はそれほど強いものではありません。だからこそ、世界には選択や結果を神に委ねる「宗教」が存在しています⛪️宗教を否定する日本人は一定数存在しますが、神道仏教が日本の価値観を形成しているのは事実であり、つい数十年前にも日本人は神道を前面に打ち出していました。

あまり難しく考えなくても、「明日天気になあれ」と下駄をひっくり返す遊び、占い、元旦のおみくじなど、人がその命運を他に委ねるのはなんらおかしいことではないのです。逆に、全て自分のせいだと背負い込むことで、人は精神を病んでいくのです👻


人間形成の指標がない日本の現状

同じ価値観を根底に、同じ目標に向かう。これほど集団として力を発揮できる状態はないでしょう。そして、日本の現在はそれに逆行する状態になっています。自分で選んだのだから、という安直な自己責任論で他人に干渉することを嫌う傾向が増えていますが、元来日本人はお節介焼きの民族です。同調圧力という言葉が、コロナ禍で悪い意味でとらえられがちですが、それは民族として当然の選択です。(暴力を伴わずに、圧力で留まっている程度ならまだ優しい方です。)

この向かう先がバラバラで、なんでも自由でいいよ状態で一番困るのは教育分野です。学校の勉強ではなく、精神教育、道徳教育の面で日本は類を見ないほど短期間で弱体化してしまいました。自律を促し、我慢を強いることは前時代的という批判がありますが、規律を緩めた状態が何をもたらしているかは、現代社会の事件の数々をみれば明らかです。




おまけのお話

ニュースを観ながら、「どうしてこんな酷いことができるんだ!?」と人々が憤っていたのも今は昔、もはや価値観の理解できない人が増え過ぎて、とんでもないニュースに対して現代人の感覚が麻痺していると言わざるを得ないでしょう。

参照はこちら


このグラフを見て、今も昔も余り大差ないという印象を持つのは早合点です。参照元でも語られていますが、世界恐慌や戦前のモノ不足状態でのこのデータです。また1万人あたりの犯罪認知件数ということは、人口6000万人の1926年と比較すると、人口1億2000万強の現代では2倍の犯罪発生率ということになります。犯罪認知件数は年々減っているという発表もありますが、体感的には治安が悪くなっている一方です。報道もコロナ一色で、何かを隠したがっているのでしょうか。このまま日本はどこに向かっているのでしょうか。



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