日本人は礼儀正しいのではなく臆病者

Kazuma Muroi

Shalom Homesの代表取締役。NPO法人横浜市まちづくりセンターの理事。執筆テーマは古武術・子育て・民俗学・宗教学。

かつては礼節の民であったのだろうが、現代の、少なくともこれからの令和の時代に差し掛かる現在の日本人は決して礼儀正しいとは呼べない。
日本は世界一治安が良い国であり、「相対的」に観て礼儀正しい国民性ではある。
それは、「絶対的」ではなく、比べる相手がいるからこそ判断できるレベルである。

礼節というものは、あくまで主観的視点が拭えないものであり、人間関係を円滑にする目的で成り立っているに過ぎない。
人から無礼に見えたからと言って、異なる価値観からすればそれは失礼に当たらないかもしれない。
しかし、日本人の無礼者はそんな確たる信念を持たず、注意をすればそそくさと逃げ出すか、屁理屈をこねる程度であり、自分が駄々を通していることは理解しているのである。
然るべき時に意見を言えず、監督する敵がいないと分かると周りに気を遣わなくなるのは姑息でありただの臆病者である。

注意されれば後ろめたいけれど、法律に反してなければ問題ないでしょう?というのが彼らの見解であり、所詮、日本民族の礼節などその程度なのである。
誰に見られずとも、お天道様が見ている限り恥ずかしい行いはしない、という強き心を持ち合わせた人間は、今の若年層には皆無といえる。
それは彼らが愚かなのではなく、それを教わっていないからであり、それを当然とする世代はその行動の模範が身近にいたからできるのである。

日本の礼節を無理にでも絶対的にする方法は教育の改革が必要である。
今の形骸化した道徳教育を見直すことは必然の課題である。
また、短絡的な特攻薬なら平安時代の禿(かむろ)のような監察官を世に配置することである。
行き過ぎると反体制取り締まりの特高警察になってしまうのでセーブが必要だが、あまりに目に余る人々の乱れとそれを注意する人の少なさから、罰則を前提とした公機関の介入があってもよいだろう。
野放図な自由など、人を乱すだけである。

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