道を失う子どもたち

Kazuma Muroi

Shalom Homesの代表取締役。NPO法人横浜市まちづくりセンターの理事。執筆テーマは古武術・子育て・民俗学・宗教学。

「なんでも自由」に苦しむ子どもたち

「自由」こそが最良とする意見が日本だけでなく西側諸国では多数派です。言論の自由、表現の自由が謳われ、報道の自由ランキング(現在、日本は67位/180位)というものも作られています。独裁者や王政が認めなかった自由を、国民に広く行き渡らせることが資本主義・自由主義の根幹とされているからです。ところが、選択肢が多すぎることが人生に不安感をもたらすこともあります。 多数の選択肢から「選ぶ」という行為を苦痛に感じる人間は少なからず存在するのです。例をあげるなら、多数ある保険から何でも自分で選べるなら、「ほけんの窓口」の商売は成り立たないでしょう。人はそれほど自分の選択に自信があるわけではなく、また、全てを選択の結果と片付けることは未熟な若者には酷な話です。


結果は選んだ人の自己責任?

日本には過剰なまでの自己責任論が蔓延しています。それはしばしば福祉の領域を脅かし、ホスピタリティの欠如をまざまざと見せつける結果となっています。例えば、混みあった時間帯の電車に乗るベビーカーを抱えた主婦への嫌がらせ、公園で遊ぶ子どもの声への罵倒が挙げられます。子どもを育てる母親とは本来崇高な存在であるのに、社会は「産みたくて産んだんでしょ」という歪んだ感情で彼女たちを苦しめます。社会の未来を支えるのは子どもたちなのに。

話を戻しますと、選択肢の中から高校進学や大学進学を選ばなかった子どもたち、選べなかった子どもたちは傷モノと見られがちです。何でも勉強できる環境だからこそ、選びきれずに大きくなってから「あれをやっていれば良かった」と後悔するのは常です。こうした一度痛い目をみた子どもたちに共通するのは、根幹となる強い価値観、言い換えれば志を持っていないことです。

身体は自由なのに心は不自由、な彼ら。心の隙間を埋めるものはかつては厳格な大人や教師、宗教でした。今は恋愛、SNSで人気者になること、お笑い番組で、空虚な心を満たそうとします。 今の10代20代は心の拠り所、道を示してくれる絶対の存在を探し求めることに、人生の多くの時間を空費しているのです。


教育機関と社会に求められること

若者の導き手に求められるのはぶれない価値観を提供することです。ダメなものはダメ、正道に導くために、一見理不尽であっても曲げない教育です。それは今の「自由」を貴ぶ社会に葬り去られた「不自由」として、束縛と捉えられることもあるでしょう。でも考えてみてください、教師に対して尊敬の念がなく、平手打ちをした教師の動画をあげて謝罪させることが、日本人が目指した自由と平等の教育なのでしょうか。

教育者、保護者はなれ合いの友達ではないのです。子どもを思いやるからこそ、厳しく接することが大切なのです。まさに「獅子の子落とし」が今求められていることなのです。


子どもの選択肢を後押しする価値観

2つから1つしか選べないと不平を言う子どもも、5つの選択肢なら文句は言いません。それが100こだからと満足度があがるわけではありません。子どもが本当にやりたいことを悟り、彼らが選びやすいものを提供するのです。そのために、芯の通った大人が必要であり、そうした大人を育てる教育が必要なのです。匿名であることで醜さを露呈する人間も、内弁慶の外仏な大人たちも、彼らに信念がないから、心が迷っているに過ぎません。

自分はどう生きるべきか、その問いを教えてくれる存在、その拠り所を早く持つことがその後の人生を豊かに生きる鉄則となることでしょう。

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