コミュニケーションが色褪せていく首都圏

Kazuma Muroi

Shalom Homesの代表取締役。NPO法人横浜市まちづくりセンターの理事。執筆テーマは古武術・子育て・民俗学・宗教学。

他人と話したがらない人々

社会人になって早10年、首都圏に居を構え、機械のようになっていく人々の変化に感ずるものがあります。「まあまあまあ」がかつての日本の良くも悪くも特徴でしたが、今では面倒事を避けて会話も非難もしない「無を貫く」のが主流になっています。電車でも車でも、その特徴は変わりません。たった一言、ほんのわずか確認の声掛けをするだけで人間の感情は大いに好転するものなのに。


電車の中の変化

ありがとう、すみません(sorryではなくexcuse meの意味)を発する人々が少なくなりました。奥が空いているのにドア付近から動かない人、足を組む人、こういうマナーの悪い人間は今も昔も変わりません。着目すべきは座席に座る時と立つときです。空席の前に立っている人や、席を立つ時に目の前にいる人に動いてもらう際に、目を合わせずに無言で押しのける人が増えました。いじわるをする人なんて一人も見たことありませんし、「ちょっと失礼」の一言で全てがスムーズに回るのに、コミュ障という言葉が決して一部の人間に対する蔑称ではないことを恐ろしく感じました。


車に乗っている時の変化

強引な割り込みやあおり運転をする人は前からいました。日本のローカルルールとして、何か気を遣ってもらった際にハザードを1秒弱つけるものですが、もう一つの御礼手段であった、窓から手を出して礼を示す人が激減しました。チンピラの兄さんほど、窓から腕を出したまま挨拶してくれたものです。ハザードすらださない人もめちゃくちゃ増えました。劣後車線から優先車線にいれてもらう時にも当然のように割り込んだり、自分の車線に車が停まっているといきなり対向車線に飛び出してきたり。後者の場合は基本10:0で中央分離線を飛び出した側が責任を負うので、優先道路の方は最悪ぶつかっても責はありません。

ほぼ毎日運転していて、5年無事故無違反で走っている身としては、ちょっとしたお先にどうぞの気持ちで、みんなが円滑に過ごせるのに、人口が増えるということは人々をここまで醜くすることに驚きです。


会話や交流が人と人との間を円滑にする

アメリカに滞在した際にはこのあたりのマナーは過剰なほど徹底していました。子どもへのスマイル、女性や子連れに対して必ずドアを開けて支えてくれる、同様に道を譲ってくれるetc...直情的で差別も根強い国ですが、都市部でのマナーは日本より遙かに進んでいる印象です。

首都圏の人間がコミュニティ下手な原因のひとつはスマホの普及です。電車内で周囲の状況を確認したり、他人の表情を見ることがなくなり、自分だけの空間(パーソナリティスペース)に閉じこもる人が増えました。目を見て会釈、手をあげる、声をかける、相手に意志が伝えられれば方法はなんでも良いのです。目の前の接する人を大切にせずして、いざ本当に大事な人を大切にできるものでしょうか。無意識に行っていることは、家族や恋人と共にいる際にもふとした時に表れてしまうものです。常日頃から、人の中にいるからには人に気を遣うよう心掛けたいものです。人はひとりでは生きられないのですから。

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