人の褌で相撲を取る
日本古武道は他流試合も日本一を決める試合もない。演武会で己の研鑽を披露し、奉納演武では神にその魂を照覧していただくのみです。この世界では流儀の正統性がとても尊重されます。
それに伴って「当道場こそが正統である」「~の先生に習った自分はすごい」といった看板を飾りたい輩が後を絶ちません。分派独立問題は、有名な流派では天真正伝香取神道流、小笠原流弓馬術ですが、天道流にも柳生にも二天一流にも琉球空手にもあります。現代武道で言えば、極真空手は言わずもがな、クラヴマガにも存在します。
己の腕前よりも、肩書を立派にしたがるのは武術の世界だけではなくビジネスの世界でも同様です。しかし、その肩書に惹かれる人がいるのもまた事実です。自分の実力以上のもの(虎の威)で自分を大きく見せる輩(狐)はどの世界にもいるのです。
名声争いの陰で失われていくもの
そうした権力争いに巻き込まれて、本来の実(じつ)が疎かになることは盛者必衰の理ともいえるでしょう。日本のものづくりの長所は中身の充実に余念がないことですが、武術界ではなかなか実を磨き続ける者よりも、名声にあやかって自分を着飾りたい人が多いように思えるのが残念でなりません。
そして、「自分が強くなりたい」という堅固な意志をもつ人はそうした権力志向でない隠遁志向だったり、自分のことしか考えない輩だったり、前に出ることに興味がなかったりします。実力があって、かつ、前面に出がたがるというのは相反する性質であり、双方兼備しているように見える人には周りからの援助が必ず存在します。
磨くべきは己
武術をビジネスととらえるなら、肩書で着飾るのもよいでしょう。しかし、本来の武術の心を大切にするなら、本業は別で持っていたいものですね。武術一本で生計を立てようとすると必ず技を研磨することと違う思考が混じりますし、視野も狭窄になりがちです。
武術を一生続けるものと捉えて、些末なことに一喜一憂せずに、自律のための一助として修業を続けていきたいものです。
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